口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。(ローマの信徒への手紙 10:9)救いの条件は「信仰」のみです。洗礼はそれを公にする儀式であって、救いの条件ではありません。ですから伝統的な正統派のキリスト教であっても、救世軍や無教会主義のように「洗礼」という入信儀礼を持たないところがあります。
罪の告白と赦しはカトリック教会で制度化されていますが、ほとんどのプロテスタント教会では個別に罪を告白する制度を持ちません。それは個人の祈りの中で、信徒と神の間で交わされるものです。
聖書の中では「救い=永遠の命を得ること」だとされていますが、神の愛はそれとは無関係にあらゆる人に既に与えられているものです。神を信仰するから、その見返りとして神が人を愛してくれるのではありません。人が神を信仰しようがしまいが、神は無条件で人を愛しています。その愛が究極の姿で示されたのが、イエス・キリストの十字架の死でした。
イエスは人々に愛されたから、そのお礼や見返りとして十字架にかかったのでしょうか。違います。イエスは誰からも見放され、見捨てられて、十字架にかかったのです。神は人間に疎まれても、憎まれても、さげすまれても、なお人間を愛しているのです。
信仰はそうした神の無償の愛に対する人間の感謝を示すものであって、信仰の見返りとして愛を得ようとするものではありません。
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