2015年2月19日木曜日

日本キリスト教団の信者はエホバの証人に言い負かされる?

 日本キリスト教団の信者は、エホバの証人と議論すると簡単に言い負かされてしまいますか? エホバの証人と議論するなという意見は、聖書的ではないと思います。
退ける前に一、二度、訓戒を与えるべき。(テトス3:10-11)
と、聖書に書かれているからです。



 日本キリスト教団でも教職(牧師)が言い負かされるとは思いません。また熱心に聖書や教理(教理史含む)を学んでいる信徒も、エホバの証人が相手ではびくともしません。しかしそれ以外の信徒は、エホバの証人と議論すればあっと言う間に言い負かされると思います。

 これは日本基督教団に限りません。プロテスタントの他教派も同じですし、カトリックも正教も同じです。こうした一般的なキリスト教教派では、信徒に対して聖書を用いた論争や議論の訓練を行っていません。それに対してエホバの証人はその世界のプロフェッショナルです。両者が争えば勝負になりません。エホバの証人の圧勝でしょう。

 福音派の信徒は聖書を熱心に学んでいるので、エホバの証人とはいい勝負になるかもしれません。実際、エホバの証人などのキリスト教的カルトからの脱会問題に熱心に取り組んでいるのは福音派の牧師さんが多く、彼らはエホバの証人の教理を、聖書を使って論破してしまいます。しかし福音派の信徒が全員聖書をきちんと学んでいるのか、教理を正しく理解しているのかというと、必ずしもそういうわけではないのです。エホバの証人も福音派の信徒も「聖書をもとに議論する」という方法論が似ているので、論争になれば両者の言い分がうまく噛み合うというだけかもしれません。

 いずれにせよ信仰の世界は学問の世界とは違って、「言い負かされたらその考えを捨てなければならない」ということはありません。自分の信仰を完膚無きまでに否定されてぐうの音も出なくなっても、「それでもわたしは神様を信頼します」とへこたれなければいいだけのことなんです。エホバの証人に言い負かされてもクリスチャンは信仰を曲げないし、プロテスタントの牧師と議論して言い負かされてもエホバの証人は信仰を捨てません。どっちもどっち。議論するだけ無駄です。

 そんなわけで一般的に教会では信徒たちに向かって、「エホバの証人とは議論するな」と教えていたりします。議論しても無駄だからです。
 分裂を引き起こす人には一、二度訓戒し、従わなければ、かかわりを持たないようにしなさい。あなたも知っているとおり、このような人は心がすっかりゆがんでいて、自ら悪いと知りつつ罪を犯しているのです。(テトスへの手紙 3章 11-12)
エホバの証人の信仰が正統派信仰から見て誤りであることは、エホバの証人の発足当初から彼らに対して指摘されていることです。しかし彼らはそうした指摘を無視しています。エホバの証人は分裂を引き起こすもの(異端)であり、正統派教会から数え切れないほど教理の誤りを指摘されても従うことがないのですから、かかわりを持たないようにするのもひとつの選択でしょう。

 ただし「他の人が言ってもダメだったかもしれないが、わたしの言葉には従うだろう」と考える人は、エホバの証人と議論してもいいかもしれません。
 主の僕たる者は争わず、すべての人に柔和に接し、教えることができ、よく忍び、反抗する者を優しく教え導かねばなりません。神は彼らを悔い改めさせ、真理を認識させてくださるかもしれないのです。こうして彼らは、悪魔に生け捕りにされてその意のままになっていても、いつか目覚めてその罠から逃れるようになるでしょう。(テモテへの手紙二 2:24-26)
クリスチャンに必要なのは信仰と希望と愛であり、エホバの証人が悔い改めるという希望も捨てることなく、愛を持って彼らに接していく役割も必要でしょう。しかしあらゆる人にそうした賜物が与えられているわけではありません。

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